2011年07月21日
忍者ディフェンスとマッハ攻撃
サッカー日本女子、ワールドカップ優勝は本当にお見事でしたね。
これまでの日本女子球技での活躍と言えば、記憶に新しいのがソフトボールでの2008年北京五輪金メダル、古くは東洋の魔女と言われたバレーボール女子の1964年東京五輪、1976年モントリオール五輪での金メダルを思い出します。
では、女子バスケが世界選手権で2位をとったことを御存知ですか?
1975年の女子バスケットボール世界選手権で、日本はソ連には負けましたが見事2位になり、生井(なまい)けい子選手が127得点(5試合)を挙げて今回のサッカーの澤選手同様MVPを受賞したそうです。
この世界選手権の成績でモントリオール五輪出場が決定したんだそうです。
モントリール五輪開催期間中は、毎日国鉄の駅に夕刊を買いに行き、隅から隅まで読んでいたので記憶に残っています。(当時、家には夕刊の配達はありませんでしたので
)
前年の世界選手権での2位、しかも当時、ソ連にはセメノワという210cmの有名な選手に対し、160cmそこそこの生井選手の活躍を期待して、マスコミの下馬評は高く、テレビでもたくさんの試合を観た記憶があります。女子バスケが五輪の種目になったのは、この大会が初めてでしたしね。
恐らく、自分が体育の授業や球技大会以外でバスケの試合を観たのはこの五輪がはじめてだったと思います。
世界選手権とほぼ同じメンバーで挑んだ結果は、優勝候補の米国、カナダに連勝してメダルを期待されたものの、その後の3連敗で6カ国中5位の成績に終わりました。
しかし、生井選手は5試合で102点を挙げて得点王を獲得しました。おさげ髪の生井選手、コートの中をちょこまかと走り回って、得点してたシーンをはっきりと覚えています。
日本の女子バスケは、「忍者ディフェンス」、「マッハ攻撃」という、今なら笑ってしまうようなキャッチフレーズがつけられていたようです。
この五輪のあと、女子バスケは勝てない時代に突入し、五輪の舞台に戻ったのは20年後の1996年のアトランタでした。
あの中村和雄さんがHCを務められたのは、その間の勝てない時代です。色々ご苦労があったことと思います。
これまでの日本女子球技での活躍と言えば、記憶に新しいのがソフトボールでの2008年北京五輪金メダル、古くは東洋の魔女と言われたバレーボール女子の1964年東京五輪、1976年モントリオール五輪での金メダルを思い出します。
では、女子バスケが世界選手権で2位をとったことを御存知ですか?
1975年の女子バスケットボール世界選手権で、日本はソ連には負けましたが見事2位になり、生井(なまい)けい子選手が127得点(5試合)を挙げて今回のサッカーの澤選手同様MVPを受賞したそうです。
この世界選手権の成績でモントリオール五輪出場が決定したんだそうです。
モントリール五輪開催期間中は、毎日国鉄の駅に夕刊を買いに行き、隅から隅まで読んでいたので記憶に残っています。(当時、家には夕刊の配達はありませんでしたので

前年の世界選手権での2位、しかも当時、ソ連にはセメノワという210cmの有名な選手に対し、160cmそこそこの生井選手の活躍を期待して、マスコミの下馬評は高く、テレビでもたくさんの試合を観た記憶があります。女子バスケが五輪の種目になったのは、この大会が初めてでしたしね。
恐らく、自分が体育の授業や球技大会以外でバスケの試合を観たのはこの五輪がはじめてだったと思います。
世界選手権とほぼ同じメンバーで挑んだ結果は、優勝候補の米国、カナダに連勝してメダルを期待されたものの、その後の3連敗で6カ国中5位の成績に終わりました。
しかし、生井選手は5試合で102点を挙げて得点王を獲得しました。おさげ髪の生井選手、コートの中をちょこまかと走り回って、得点してたシーンをはっきりと覚えています。

日本の女子バスケは、「忍者ディフェンス」、「マッハ攻撃」という、今なら笑ってしまうようなキャッチフレーズがつけられていたようです。
この五輪のあと、女子バスケは勝てない時代に突入し、五輪の舞台に戻ったのは20年後の1996年のアトランタでした。
あの中村和雄さんがHCを務められたのは、その間の勝てない時代です。色々ご苦労があったことと思います。